風を切る。

白く乾いた木々が飛ぶように視界から消える。

白銀の海原を滑るように駆け抜けて、目指す先はどこまでも続く深い青だった。










その日、サダルが私を起こした時はまだ朝というには早い時分だった。
部屋は薄暗く、私の顔を覗き込むサダルの顔もぼんやりとして見える。腰を起こして窓を見ればやはりまだ日は出ていない。鈍色の雲が追い立てられるように早く流れている。その跡にはうっすらといくつかの星が見えた。

目を細めて外を眺める私を、サダルは隣で正座し注視していた。私から何らかの印を読み取ろうとしているみたいに、いつも以上に目を凝らしているようだった。


「まだ夜明けじゃないか。何かあったのか」

「えぇ。ありました。さぁ、起きてください。ほら、外寒いから、これ着て」

「待て待て、何だって?」

「これ」


そう言ってサダルは厚手の衣を私に押し付けた。あまつさえ戸惑う私に着させようとする。


「わかった、わかった。自分で着れるよ。なぁ、お前知らないかもしれないけど、外にはまだ星が出ているんだ。ほんの少し明るいのは太陽のせいじゃなくて月が出ているからだ。いったいどういう了見でこんな時間に」

「オウスこそよく見てください、外」


サダルは立ち上がって窓のほうへ駆け寄った。小さな窓には太い枝が交差していて、サダルはその間から覗きこむように顔を寄せて頬を緩めた。ほら、と言いながら嬉しそうに手招きするものだから私はまだ眠いと叫ぶ体を無理矢理起こしてサダルの隣に立った。

頬に凍るような外気が突き刺さり思わず一歩引いたが、目の前に広がる光景に私はその場にとどまった。
限りなく真っ直ぐな、灰色の地平線が果てしなく広がっていた。その上を群青色の空が、ところどころにかすかな星を散らして、ぴたりと箱の蓋を閉めるみたいに覆っている。空も大地も、全体として薄墨を垂らしたような色合いであった。


「ね? すごいでしょう? 昨日から少し降ってたんですけど。起きてましたっけ? 貴方が寝たあと、吹雪みたいになったんですよ。もううるさくて私寝られなかったんですけど、いつのまにか音が止んでて、外出てみたら一面真っ白じゃないですか。もうびっくりしちゃって」


サダルがはしゃぐのもわからないでもない。
山の麓のここいら一帯は家もまばらにあるのみで景観を損なうものは何一つとしてなく、加えて私達がいる山小屋は更に集落から離れたところにあるから、それこそ凪いだ海みたいな茫漠たる雪景色が広がっていたのだ。ヤマトではこうもまっさらな雪景色にお目にかかったことはついぞない。それもこの夜明け前の時間帯とあって、そこには不思議な夜の寂寞のなごりがあった。

それにしても、サルメならともかく、雪景色にサダルがこんなにはしゃぐなんて私には意外だった。むしろ寒いから外に出たくないとでも言いそうな雰囲気がある。
私の思惑は多大なる勘違いだったようで、サダルは窓をのぞきこんで、私を見、それからまた外を見るという動作を繰り返していた。


「それに今の時間が一番綺麗。日がでたら雪、解けちゃうかもしれません」

「これだけ積もってるんだ。解けやしないよ」

「ねぇ、行きましょう」


これ以上待たせては地団太を踏みかねないほどに気が高ぶっているらしいサダルに促されて、私は苦笑しつつ衣を着込んだ。

廊下を通るとき、サダルは急に押し黙り、静かに歩いた。サルメが寝ているからだろう。
そうか、それでこの時間に起こしにきたわけだ。
なんだかいじらしく思えて、私もできる限り足音を立てないように歩いてやった。








空は深く濃い青で、閑寂たる雪に覆われた地はその暗い光を浴びながら密やかに夜が終えるのを待っている。そこにあるものは何者も寄せ付けないような深い眠りの中の静寂だった。だがそれはある種の人間に対する不思議な親しみも伏せ持っているようだった。

サダルは戸口を出ると圧倒されたように息を呑んだ。あれだけ外に出たいと言っていたくせにいざこの光景を目にすると足を踏み出すのを躊躇っている。
私は何食わぬ顔で仄暗い海原に足を踏み入れてやった。積雪は綿のように柔らかく、だが確かに私の足を受け止める。
空気は冷たいが風はない。冷気は我々の進入を拒まず、悪意なくそこらをただよっているだけだ。


「オウス、待って」


サダルは雪に足をとられそうになりながら駆けてきた。私は手を伸ばして彼を待ってやった。


「サダル、おいで」


一歩一歩重たそうに歩いてきて、サダルは私の手をとった。
温かい。顔を上げた彼の笑顔は、もっと温かい。
サダルの吐く息が白くなって、この寂寞たる光景にわずかに動きを与えていた。


「雪っていいですよね。私好きなんです。全てが眠っているみたいにしんとして。なんだか落ち着くんです」

「わかる気がする」


普段から物静かなサダルは特に落ち着くのだろうなと私は思った。排他的なように見えて、不思議な親密さを感じさせるこの情景はサダルによく似合っていた。

サダルは屈みこんで両手で雪をすくった。それから落とした。それを何回か繰り返していた。


「手、寒くならない?」


そう問いかけると彼は立ち上がって手を見せた。指先まで赤くなっていて、歯をがちがち言わせながら死ぬほど寒い、と目で訴えていた。


「サダル……お前がそんなに馬鹿だったとは知らなかった」

「馬鹿じゃないです。好きでやってるから、いいんです」

「それが馬鹿だって言ってるんだよ」


鼻で笑うと、サダルはカチンときたのか私を敵意のこもった眼差しでにらみつけた。私は肩をすくめてみせた。突然視界が反転し、首筋に凍りつくような冷たさを感じた。私を押し倒したらしいサダルは声を上げて笑い、私の隣に同じように倒れこんだ。


「こいつ!」

「やだ、オウス、風邪引くから。あはは」


私達は揉み合って子供みたいに雪の上を転げた。サダルは楽しそうに笑っていた。
笑い声が段々ただの呼吸に変わって、サダルは疲れた、と言いながら腰を起こした。
それから私の手をとった。彼に抱えられるようにして起き上がると、サダルは私の髪についた雪を払ってくれた。
白い息と、サダルが払う雪が何かの生き物みたいに浅紫色の空中にふわふわと舞った。


「風邪引きますよ」

「お前がやったんだろ。全くどうしたってんだ、そんなに雪が好きか」


子供みたいだと思って私は笑った。だが私を見返したサダルの表情は子供のそれではなかった。遠くを見るような、それとも遠くから見ているような奥行きの測りがたい瞳で私の奥深いところをじっと見つめているようだった。

それからサダルは視線をゆっくりと下のほうに持っていって私の胸の辺りで止めた。心臓の音を確かめるみたいに、そのあたりを指先でたどたどしくなぞった。


「……なんか、急に触れたくなって」

「え?」

「貴方に……」


サダルの手の触れたところにある私の心臓は落ち着いた鼓動を繰り返していた。サダルの掌を通して私にはそれがわかった。
撫でるようにしてサダルの細い指が離れた。額に落ちた前髪が俯きがちのサダルの表情を隠していたが、きっとさっきと同じような瞳をしているのだろう。
しばらく押し黙ったかと思えば気分をとりなすようにはぁ、と一息ついて、少し困ったような笑顔で空を仰いだ。
空はまだ薄暗い。だが白み始めている。


「雪、好きですよ。全部、隠してくれるから。まるで違う世界みたいになるから」


私から離れ、二、三歩後ずさると、踊るみたいにくるっと背中を向ける。


「全部、埋もれちゃえばいいのに。いろんなこと、全部。それで皆しんとしてればいい。動かず、喋らず、何も変わらず」

「それでは私達の旅も進まないな」

「いいじゃないですか。そしたら、ほら、もうここで暮らしちゃうとか。ヤマトも積もればいい。帝にも何も言われなければ、オウスだってそうしたくはない? それともヤマトに帰りたいですか?」

「わからないな。私はお前がいればいい」


突然の核心に迫る言葉に、サダルはいつも驚く。言葉が出なくなってしまい、怒ったような顔をとりつくろって私をたしなめる。私はそんな彼の表情を見るのが好きだった。だからいつも何気ない会話の中に私はそっとそんな言葉を交えてみるのだ。

だが今日は違った。なんとも言えない悲しげな瞳で私を見返すのだ。その瞳を長い睫が隠した。
サダルの足元の雪が音を立てずにはらりと舞った。その音はどこか違う世界に吸い込まれていったようだった。


「時々ね、夢を見るんです」

「……どんな?」

「貴方が、死んじゃう夢」


寂しそうな笑顔を見せた。


「いつも、私の目の前で。手を伸ばしてもちょうど届かない距離で。何で死んじゃうのかわからないけど、確かに死んじゃうんです。夢の中ではそれがわかる。崩れるようにして、膝をついて。で、貴方は倒れこむ直前に、抱きかかえられてる」

「誰に?」

「……サルメ」


サダルは足先で雪をいじっていた。円のようなものを規則的な速度で描き、やがてピタリと動きを止めて言った。


「嘘です。本当は、ヒメに」


言ってから数秒間を置いて、サダルは肩を震わせた。自分の言葉にか、それともこの寒さにかはわからない。
私は彼の背から腕を回して優しく抱きしめるしかできなかった。
冷たい。腕も、背中も。
サダルの声は音も風もない冷たく漂うだけの空気のように、ただただ紡がれた。


「貴方を抱えて、ヒメは貴方の髪を撫でている。ずっと。サルメが私を呼んで、『もう行こう』って言うんです。でも私は動けない。そうするとヒメが気がついて顔を上げる。彼女と目が合う前、いつもそこで目が覚める」


私には何も言えなかった。彼が何を言いたいのかはわからない。彼女のことをまだ気にしているのだろうが、彼女はもういない。
私は彼を抱きしめる腕に力を込めた。私の手に重ねられた彼の手はすっかり冷え切っていた。


「……ごめんなさい」


震える声でサダルが言った。細い糸のような弱弱しいその声はしっとりと空気に溶けた。


「貴方が好きです」

「……知ってるよ」

「好きです。本当に……好きです」

「サダル」


胸の位置にある私の手を握って、彼は泣いていた。顎を伝って涙が落ちて、地に落ちる前に見えなくなった。


「馬鹿だな。私は死んだりしないし、お前が私を想う以上に、お前を愛してる」

「貴方といられなくなる」

「ずっと一緒にいるよ。お前が嫌だと言ってもお前を離さない」

「……わからない。ごめんなさい、大丈夫」


私はサダルの肩を反転させて向き合う形になった。サダルは顔を上げない。


「わからないのは私だよ。何がそんなに悲しい? 夢を思い出して? なぁ、ただの夢だよ。私はいたって健康だし、病気でないなら一体誰に殺されるって言うんだ?」


サダルは首を振った。言葉を発しようとして何度か息を吸ったがそれは嗚咽になってしまい、なかなか言葉にはならない。私は彼の背中をさすってやった。

いじらしいとも思う。健気だとも思う。私の死ぬ夢を見て怯えているなんて、可愛げがあるじゃないか。
そう考える一方で、私は彼の泣いている姿を見るのがとてもつらかった。
「ただの夢だ」なんて言葉は、自分に投げかけているようでもあった。

サダルはもともと感受性が強く、色んな物事に無防備である性質だと思う。ただそれ以上に気丈で、何事も自分の中に溜め込む性質でもある。自己抑制しがちな気質なのだ。
そんな彼が涙を見せたことが一度ある。私に好かれていないと思って、私に突き放されていると思って泣いたのだ。その時私はそんな彼をただ眺めていた。泣いているという事実をそのままに受け止め、それ以上のことは何も考えなかった。彼の涙は私の心を動かしたが、それは悪い感情ではなかった。それは様々なことを正しい方向に運んだ。

だが、今はとてもつらい。サダルは悲しい夢を見て今泣いている。そんなの夢だよ、と一掃できる。そのはずなのに、彼が泣くのは正当な理由があるように感じるのだ。そしてそれは私も同じように悲嘆すべき理由であるように思うのだ。
彼の涙が自分の涙であると錯覚しそうになるほど。私はとても悲しかった。

サダルは掌を押し付けるようにして涙を拭った。


「馬鹿みたい、夢なのに。そうですよね。説得力ないと思うけど、私ヒメに妬いたりしてるわけじゃないんです。そういうんじゃなくて……何かな、うまく言えない」

「……夢だよ」


私は彼が言いたいことを理解していた。そしてそれが単なる暗示なんかじゃない、ということも知っていた。
知っていたのだ。


「旅、続けたいな。ずっと」

「……旅か」


私はサダルの言葉の意味を考えた。彼の瞳の奥底にある暗闇は、私が抱えているものと本質的には同じなのだろうと思った。「そうだな」と私は言った。


「変わらないものなんてあるのかなぁ」


ぽつりとサダルが呟いた。疑問よりも諦めの色がにじんだ声だった。
その時、ひっそりとした閑寂が一筋の甘美なきらめきによって破られた。
顔を上げたサダルの鼻筋と唇が白く照らされる。視線の先の稜線の間から、まばゆい光を連れた太陽が顔を出し始めていた。

遠くの雪原が朝の光を帯びて瑞々しく輝き、白く目を射る。上空の灰色の雲は追い立てられるように西の空へ流れている。朝日がサダルの体を包み、彼の影が長く伸びる。サダルは眩しそうに目を細めた。

彼の髪が、額が眩い雪景色に溶けて、そのまま日の光にさらわれて消えてしまうのではないかと思った。そしてこの暗い大地には私一人が取り残されてしまう。そんな錯覚を覚えた。

思わず私は駆け寄ってサダルを抱きしめた。ひんやりとした衣と濡れたような髪は間違いなくサダルのもので、私は彼がそこにいるという現実を体にしみこませるように強く抱いた。彼の肩越しにその形を解かしつつある小さく盛り上がった白い大地を見た。

私は目を閉じた。


瞼の裏側の暗闇を裂いて視界に飛び込んできたのは鮮やかな青だった。突き抜けるような深い青が広がっていた。
真っ直ぐな地平線が色をはっきりと隔てており、私はその下の真白く輝く雪原を滑るように移動していた。深く澄みきった青空はどこまでも高く遠かった。雪原は果てしなく続いていた。
私はただただ、その上をかつてない速さで移動し、ぽつぽつと存在している樹木や、盛り上がった雪解けの大地が、真横の景色が飛ぶように移り変わっていった。
私自身はどこかを目指しているようでもあったし、ただ止まり方を知らないだけのようでもあった。だがひたすらに前を進む私に迷いはなかった。

私の体は不思議な浮遊感に包まれていた。初めはどのように移動しているのか分からなかったし、気にもしなかったが、少しずつ私の体は地表から離れていき、私が飛んでいるのだということがわかった。
銀色の光をちらつかせていた雪原は見る間に一枚の分厚い紙みたいに平面的になった。私は雲ひとつない空を高く高く、真っ直ぐに突き抜けていた。

前方に白い線のような何かが見えた。近づくにつれそれが緩やかに上下運動を繰り返しているのだとわかった。
それは一羽の鳥だった。私と同じ、白い鳥だった。


 





私は目を開けた。サダルが心配そうに私を見つめていた。
あたりはすっかり明るくなっていた。空が退廃的な群青色から、薄い青と白を溶かした柔らかい色に変わり、重たげだった鉛色の雲達は綿のような軽さを主張しその形を自在に変えていた。

私をじっと見つめるサダルの黒い瞳の中に朝日が映りこんでいた。恐ろしいまでに一瞬にして夜の眠りに生きづく様々なものを奪っていった太陽は今や親しみすら感じられる。私はようやく安心した心地になった。


「オウス……どうかしましたか」

「私が……私がいつか自由になったとき、必ずお前のもとに帰る」


サダルは小さく首をかしげて、数回瞬きをした。それから私の腕に柔らかく触れて、心得たような微笑を浮かべた。


「……待っています」


それから私達は唇を寄せ合い、ゆっくりと時間をかけて口付けを交わした。雪解けのような、ささやかな生命の息吹を感じさせる甘美な口付けだった。太陽の粒子が私達の間で交じり合い、温かく解けた。

真白い太陽がその姿を気持ち良さそうに空に浮かべ、一日の始まりを告げる。我々の一日も始まる。
山小屋の東の一面が黄金色に照らされている。サルメも起きてくる頃だろう。
サダルは小走りで小屋に向かっていった。扉の前でサダルが振り返る。

その時私は確信した。私は彼がどこにいようと必ず見つけられる。


「オウス」











空はどこまでも高く澄み切っている。ひやりと冷たい空気を全身に浴びて矢のように駆け抜けていた。

雪原が途切れ、緑の山々を越え、深い藍色をした海の上を飛ぶ。

風を切って前へ前へ、うんと高いところまで。